【習慣】言語とは習慣である
しゅう かん【習慣】
〔名〕長い間繰り返し行ううちに、そうするのが決まりのようになったこと。
- 英語habit
- 中国語习惯(簡体字); 習慣(繁体字)
- 韓国語습관
- インドネシア語kebiasaan
- ドイツ語Gewohnheit
- イタリア語abitudine
参照元:weblio国語辞典、goo国語辞書、Glosbe
言語とは習慣である。
時枝誠記がこれほど雑に断言することはなかったとは思うが、僕が言語について考えるとき、言語過程説を念頭において、分かりやすくこの言葉に立ち返る。
「言語」という語を言語によって規定して何か言おうとしても言語の正体は掴めない。これは悪手である。ならば「習慣」と答えることはどうか。習慣とは法である。形式そのものを示した言葉である。それゆえ自性がない。この答えは禅問答に対して「空」で応じることと似ている。だから座禅をするように、時々「習慣」のことに意識を向けてみるのがいいと思う。
無意味な音の並びに過ぎなかったものが人間の主体的な生活の中で言語としての地位を獲得していく過程のこと。
あるものは残り、あるものは残らなかった。その理由が合理的なときもあれば、非合理的なときもあった。ただ残ることの出来たものが残ったのだということ。
言葉のすべてがそうした理不尽で過酷な試練を経てきたこと。そしてこれからも経ていくであろうこと。
「光あれ」から果ては「コマネチ」に至るまで、あらゆる言葉が習慣の蓄積とその文脈から生まれてきたこと。生まれてくること。
習慣の異なるそれぞれの共同体において、同様の主体・場面・素材が揃うとき、「I love you.」と「月が綺麗ですね。」という二つの表現が一致することさえあるということ。
ソシュールの西洋的な言語構成観のカウンターとして打ち出された時枝の日本的な言語観に僕は共感する。
言語それ自体は無内容だ。人間の生活が言語を規定して初めて言語が生きる。人間も言語からの規定を受けて生きている。言葉は儚く頼りないものだと思う。それでも人間の生活が続く限り、どうあれ言語は存在する。
自分が永遠に生きようとは思わないが、言葉のゆく末を見守りたい心地がする。
- 翻訳お取扱い言語はこちら
2018.04